「ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくは、ふとふしぎな思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という、制作者のあずかり知らぬ何ものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。」詩人・清岡卓行さんのエッセイ集『手の変幻』【1966 びじゅつ出版社 刊】の冒頭「失われた両腕 ミロのヴィーナス」の書き出し部分です。
失われてあるがゆえに、「生命の多様な可能性の夢がたたえられ」「存在すべき無数の美しい腕への暗示がもたらされ」「欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである」と清岡さんは続けます。
さて、私達に遺された「田中千鳥(の詩文や写真など)」は多くありません。大正時代、山陰の浜辺の村に生きた無名の少女なのですから当然です。忘れ去られることに不思議はありません。ただ、僅かばかりですが彼女が綴った「ことば」は、間違いなく私達の前に拡がっています。
「ミロのヴィーナス」と「田中千鳥」を並べるのは大げさすぎると叱られるかも知れません。「美術作品」と「文学作品」もまた違います。「失われた大理石の偶然・歴史のいたずら」と「もとより完結した短い詩文」を比べるわけにはいかない、そんなそしりもあることでしょう。けど、両腕を欠くことで世界的な美の位置を占めるに至ったミロのヴィーナスを思うとき、知らず知らずに「千鳥」が浮かんでくるのです。千鳥の評論を書いた上村武男さんは、千鳥の「余白」の広さ、「余韻」の深さを指摘しました。千鳥は図らずも無意識のうちに「欠落」「不在」を孕んでしまった、そう言えるのではないでしょうか。「欠落」「不在」が孕む「永遠」それが、千鳥の詩文にたたえられ、深々とした無数・無限の多様な読みを可能にしてくれている、そう思えて仕方ありません。