知らないのに 知っている
初めてなのに 懐かしい
遠くから すぐそばで
小さくて 大きな力
チドリは古くて 新しい
このブログでは、田中千鳥の詩の世界に触発されて生まれた様々な声・言葉を発信していきます。
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正岡子規は、明治33年(1900)1月29日~3月12日雑誌「日本」に載せた評論で写生文を提唱しました。写生文とは一口でいえば「写生・写真」をもとにして実感を重んじる口語文だと書き、「文章における虚叙(抽象的)を排し、実叙(具象的)によること」を主張しました。
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1930年山形生まれの俳人・鷹羽狩行は「本当の写生とは、ものをそっくりになぞるのではなく、物に向かい合ってしっかりと物を見つめ、目では見えない物の感じや本質さえも見いだし、それを絵や文字に表すこと」【「ジュニア版 目で見る日本の詩歌⑮ 現代の俳句」】と書きました。「物と向かい合った瞬間に作者が発見した感動が、確かな表現方法によって一句にまとめられたとき はじめて写生が始まる」「写生とは対象を作者の主観(物事を考える心の働き)を通して表現するもの」
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詩人・谷川俊太郎はこう書いています。 「眼の前の事実を描きながら、それだけをとり出しあえて行分けして提出することで、一種の抽象になっている。この事実から抽象へというのは、あらゆる詩に含まれている要素だと僕は思うんです。本当の写生は写生が人の心に届いたときに一種の抽象になる。抽象になることで普遍化する。心の中のできごととしておきかえて読んでいる。」【『にほんごの授業』(国土社 1989.5.25初版)50頁】
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瀧の上に水現れて落ちにけり
俳人・後藤夜半の句です。詩人で俳句も詠む清水哲男は、「日本初のスローモーション句」と書き、「これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句があるだろうか。私は好きだ。」と記しました。【ウエブサイト「増殖する俳句歳時記」July02 1997】
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三島由紀夫は、詩人清岡卓行が初めて書いた小説『アカシアの大連』について、「外部の現実こそ夢想より夢に満ちている。自然の姿こそ劇である。ただの自然描写がそのまま精神の深淵をのぞかせる」と評しました。
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田中千鳥の映画『千鳥百年』を作った田中幸夫監督は、日本海新聞のインタビューに答えて、「等距離にみる千鳥の写生力」を語り、「万物を同じ距離感で見る。写生本来の目を千鳥は備えている。」と述べています。
20世紀の画家パブロ・ピカソ。彼の抽象画を支えるデッサン力を疑う人は少ないでしょう。
文筆家・草森紳一はこう書いています。「「写生詩」と一口に言うが、(千鳥は)分別の目をもって自然を写したりはしない。自然の中にまず己れの分別を溶かし、そのほうがかえって、もっと自然のいのちが見える、という逆分別に立っている。」
「生(いのち)を写す」
「この世の物象に対して、精神などという甘っちょろい偏向を排除して、詩の内に漲る「氣」の全体で立ち向かわせる。個人の恣意を超えて、この地上に降りてくる光と影の秘密を裏切らずにむしろ蜃気楼のはかなさを確実なものとして定着させている。」
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フランス文学者で哲学者の内田樹が作家・橋本治を哀悼する文章にはこんな一節があります。【ウエヴサイト「内田樹研究室」2019年1月29日採録:2009年9月「説明する人―橋本治」より】
「書き手は「自分が知っていること」をではなく、「今知りつつあること」を、遅れて知りつつある読者に向けて説明するときに、もっとも美しく、もっとも論理的で、もっとも自由闊達な文章を書く。