今回は松尾芭蕉と千鳥を並べてみたいと思います。世評に高いビックネーム・俳聖芭蕉と大正期山陰の浜に生きたノーマーク・無名の少女詩人を同列に置く無謀は百も承知。その上での狼藉とお赦しを乞うた上でしばしお付き合い願います。
採り上げる芭蕉の句は「古池や蛙飛びこむ水のをと」
言わずもがな、誰もが知るポピュラーな一句です。芭蕉自身が不易流行の句と自負し、門人たちが称揚し、明治期 子規の再評価を経て今に至る芭蕉の代表句のひとつでしょう。
曰く、古来からの「名所」ならぬ「名もなき」池への着目。曰く、古典和歌連歌で〈鳴き声・あはれ〉と詠まれてきた蛙に〈飛びこむ〉〈音〉を発見。曰く、聴覚的だった蛙を視覚的に「飛ぶ」動作でとらえた視点、しかもさらに見えないままで蛙の身体をありありと感知せしめた卓越。曰く、「和歌優美」の蛙を「俳諧自由」の蛙に転生させた。曰く、曰く、‥‥。世界中の研究者が無数の評価評論解説解釈を重ねてきました。機知や諧謔滑稽だった芭蕉以前の俳諧に芭蕉が出て侘び寂び軽みが加わったといわれています。さらにさらに、蛙は「群レ」をなす複数なのか、「水の音」は一回かぎりか、断続的に聞こえてくるのか、水音の単複論議も含め、一句をめぐる賞玩吟味称賛は尽きることなく続いています。
一方、千鳥で採り上げるのは「ナミ」です。
ビヨウキノアサ ハヤク メガサメテミレバ ナミノオトガ シヅカニシヅカニ キコエテクル (七歳)十 月
肺炎を病んで六十余日學校を休んだ朝、座敷の床に波の音が聞こえてくる様子を綴ったものだ。ひんやり涼しげな朝の気配、澄んだ空気、日の出前の空は紫みを帯びた青 瑠璃色かもしれません。陽の光は未だ射さずほのかに暗い中に遠く遠く波の音が繰り返して響いてくるのをじっと聞いている姿が浮かびます。そんな背景・知識はなくとも素直に絵が浮かび音が聞こえてきませんか。
芭蕉の一句にも千鳥の短詩文にも難しいことばは使われていません。だれにもわかることばで書かれています。なんだ、当たり前のことしか言ってないじゃない、そう思う人も居ることでしょう。けれど、だれにも共通のひとつの「ことば」が、まぎれもない「文学・文芸」として立ち上がってくる玄妙な瞬間があり、そのことに感応する人がどこかにきっといるのです。どこまで自覚的だったかは分かりませんが、芭蕉も千鳥もこの「文学の力・表現の命」を信じたからこそことばを紡いだのです。目にした現実・体験・心情が無媒介に一つの表現・ことば・語句につながるわけはありません。そこには必ず作者がいます。自らの見たものをいかにしてしずめ、整え、ある形式につくりあげて、読者にわたすか、読み手につなぐか、橋を架けるか、その一点に書き手は注力します。そこに有名無名の違いはありません。芭蕉も千鳥もその姿勢・観察力は同じです。二人のことばは目の前のことだけでなく、見えないものまで伝える力(静かな熱量)を孕んで私たち読み手・受け手の前に拡がっています。万人とは望まずとも、スゴイ文章だなァ、こう読めて良かったなァ、とハイタッチしあえる人々が一人でも多く増えていくなら、書き手にとって、これ以上の果報はきっとないのだと思います。