今の日本の子供たちがどのくらい「童謡」に親しんでいるのかは分かりませんが、千鳥が生きた大正時代は、たくさんの「童謡」が作られ、広く知られるようになった時代でした。鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、レコードやラジオ放送などの普及浸透が背景にありました。ウイキペディアに拠れば、童謡には「①子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌(=伝承童謡)」「②大人が子供の情操教育のために創作した芸術味豊かな作品(=文学童謡)」「③子供たちが創作した児童詩」の三つが含まれるようです。その後も昭和から平成の時代、テレビやアニメで人気になった歌曲が幾つも生まれてきましたが、それらを「童謡」と呼ぶには少し違和感があります。「童謡」は大正から昭和にかけて作られ親しまれてきた時代思潮の一つというべきなのでしょう。一過性の流行歌ではなく、世代を超えて広く永く深く愛されて続けた歌曲でした。この時代を生きた人には、きっと好きな童謡が幾つも浮かぶはずです。そんな童謡を取り上げながら、しばらく千鳥の詩との連関を綴ってみたいと思います。
まずは、筆者が一番好きな童謡:「夕日」【葛原しげる作詞・室崎琴月作曲】
ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
烏(からす)よ お日を追っかけて
真っ赤に染まって 舞って来い
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
作詞した葛原しげるは広島県福山市出身の教育者で童謡詩人。大正10年(1921年)室崎琴月が作曲して音楽会で発表、レコードとなって広く知られ歌い継がれてる曲になりました。ウイキペディアには、こんなエピソードが載っています。
「夕日」の詩は最初、「きんきんきらきら」であった。小学二年生だった長女に「『きんきんきらきら』は朝日」で、「夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と言われて変更、おかげで強い生命力を感じさせる名作となった。
たしかに!「きんきん」より「ぎんぎん」のほうが重く濁って胸に迫ります。童謡に使われる言葉は、いずれも平易です。それでいて遠くまで連れ出してくれる、見知らぬ深みにまで誘い出されるから不思議です。平易だから表層・うわべだけ・うわっつら、というのは間違いです。言葉ひとつの違いで奥行き・深さが生まれます。恐るべし「小二の少女」‼ きっと目も耳も鋭い少女だったのでしょう。それも剃刀のような軽量級の鋭さではなく、鉈のようなヘビー級の。この少女は、お日さまをうたい「みんな」という集団を採り上げているのに比べると、千鳥は、お月さまをうたう「単独行」の少女詩人でした。そんな違いはありますが、きっと日本中いたるところに、似た少女は沢山いたことでしょう。そして、令和の今もまた、きっと。