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千鳥の世界

千鳥と賢治

今回は、宮沢賢治と田中千鳥について書いてみます。800を超える詩100近くの童話、「農民芸術概論綱要」など沢山の文章や水彩画までを残し、近代文学史に輝き今なお多くの読者を持つ「巨人」と僅かに40編の詩と少しのお話しなどの詩文を残した全く無名の「幼女」、どこにも接点は見当たらないかもしれません。それでも強引に。(Going my way . なんて苦しまぎれの安直ギャグも交えながら‥。)

賢治は千鳥に先行する同質の兄でした。千鳥が生まれた1917年、盛岡高等農林学校三年生になっていた宮沢賢治は、同級生たちと文芸同人誌『アザリア』を創刊し短歌や短編を寄稿、文学的な出発を始めます。また、千鳥が亡くなった1924年、賢治ははじめての詩集『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版します。(1000部 2円40銭)賢治が生前唯一刊行したこの詩集は、辻潤や佐藤惣之助などに評価され、中原中也や富永太郎、草野心平らにも影響を与えながら世間一般には受け入れられず、大半が売れ残ってしまったようです。このように、賢治の文芸活動の初期は千鳥の生死と重なります。ただそれだけです。それでも、「すぐそばの小さきもの・身のまわりの小さくされたものに注ぐ眼差し、それらを大切にする心映え」と「不器用なまでの頑固さ、硬さ、かたくなさ」という二つの心性は、とても良く似ているように思うのです。

宗教的純潔、菜食主義、生涯独身を貫いた賢治の姿勢(頑固一徹)については広く論じられてきました。一方千鳥について母古代子はこう書き遺しています。「彼女は強い個性を持つてゐた。教育と云ふやうな一切の事は、彼女を導く何物にもならなかつた。教へたからと云つて「教はる」やうな子ではなかつた。自分の氣に入つた事だけしてして、自分の氣に入つたやうに生活しなければ、きかない子であつた。【『千鳥遺稿』「編纂後記」】

1924年の写真

一部には知られながら生前ほとんど無名に生きたこと、病弱だったことなども賢治と千鳥は似ていなくもありません。それよりも、自らの生に忠実に、原形質のまままっすぐに生きた、その輝度と硬度は同質なものです。二人はともに、人が生きることの根底にある〈寂しさ〉というミクロと、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」【「農民芸術概論綱要」】というマクロの両方を視界におさめながら、遠近両用を生きました。二人には共通して、ウエットな日本的情趣とは異なる宇宙的資質が流れています。残念ながら、その宇宙を十全に展開して逝った賢治に比べ、千鳥は硬い蕾のまま僅か七歳半で他界しましたが。

さらに二人には、耳の良さ聴覚の文学」「音楽性」という表現の共通性があることも指摘しておきたいところです。賢治の代表作のひとつに『風の又三郎』があります。その冒頭の有名なオノマトペ「どっどど どどうど どどうど どどう青いくるみも吹きとばせすっぱいかりんも吹きとばせどっどど どどうど どどうど どどう.」と千鳥の詩「 風のつよい夕方に 母ちやんと山へ お花とりにいつた 山のおんがくは おそろしかつたには、音が聞こえてきます。二人の文学が、今も広く音読・朗読によって愛好されている由来はここにあるのだと思うのです。

kobeyama田中千鳥第一使徒

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田中千鳥第一使徒

千鳥と芭蕉

2021.03.30 宇治の会 報告

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