千鳥が朝夕散歩したであろう山陰・日本海・浜村の海がどんなものだったのか、百年を経た今となっては定かではありません。唯、人家は変わっても、自然の姿はさほど変わっていないのではなかろうかと思い、写真に収めてみました。
海に近づくにつれて波の音は高くなります。季節によって、天候によって、変わります。日によって時間帯によっても変わったことでしょう。風向き次第で大きくなったり小さくなったり‥。ただ、千鳥の一生は「海」と共にあり、「波の音」を聞きながらの日々であったに違いありません。詩句には「ナミノオト」が何度も印象的に登場します。
千鳥にとって「海」や「ナミ」は、自らの限られた命の時間とは対照的な「悠久」「永遠」「不変(普遍)」としてあったのではなかろうか、と、読み手の勝手な妄想は膨らみます。それは、身近な家族や小動物、花や樹木のはかなさ・うつろいとは対極に位置する「不動」「確固」であり、その懐に抱かれてあることの「安心」「慰安」までを感受して生きた、そんな思いに駆られます。千鳥の詩の世界に流れる明るく澄んだ「平安」の奥には、海と波が確かに横たわっています。