「
」詩人・荒川洋治さんの言葉です。【『忘れられる過去』 】人は、何も知らないうちは素直に見知った言葉を使って書くが、少しするとおませになって、オシャレでカッコいい文字を使いたくなるものだ、これがよろしくない、と自戒を込めて書いています。「強く」と書くところを、「剛く」や「毅く」「勁く」と書いたり、「青い」を「蒼い」「碧い」としてみたり、「会う」もただ「会う」でなく「逢う」「遇う」と書いてみたくなったり‥‥。う~ん 耳が痛い指摘です。もちろん、漢字がかもす意味・微妙なニュアンスの違いを否定するわけではありませんが、ことさらに持って回った言い回し、知識のひけらかしは物書きとしては「半人前」ですよ、とたしなめます。「育てる」ということばを「育む」と言い換えてみたり、「ことばを紡ぐ」と書くと何やら上品で奥床しく響く、なんてのも要注意です。きずな、や、いやし、の乱用も感心しません。
荒川さんの言葉には続いてこうあります。「
平易な文字を使って、きちんと書く。奥行きも深さも持つチドリの言葉は、「ものを書く人」として、既にして十分な「おとな」だった、そう言ってもいいのではないでしょうか。(難しい文字を知らなかったからではなく、たくまずして「美意識の凝り」と無縁の完成度に達していたのだと思うのです。)