最近は〝日帰りで近くの遊園地を楽しむ〟ばかりで、〝行ったことのない土地、見知らぬ土地に出掛ける旅、思いがけないことに出会う旅〟は敬遠されがち‥‥そんな声を聴いたことがあります。確かにそうです。分かりやすいこと、簡単なこと 早いことがもてはやされます。効率優先、ファスト志向、コスパ重視、有用性、有効性‥‥。なじんだストーリーや流行りのテーマやすぐ役に立つ情報が幅を利かせ、映画や書物のベストセラーにはそんなものが並びます。安全・安心第一、不要不急の外出は控えましょう、というわけです。けど、本当にそれでいいのでしょうか。詩や文学も含めあらゆる表現物は 本来 そんな傾向とは無縁の場所、むしろ正反対のところに生まれ、生き延びてきたのではないでしょうか。それは、読み手を見知らぬ地に連れ出し、向こう側に渡し、時には得体のしれない世界に導く危険物、危険へといざなう横断者・越境者でもあります。
田中千鳥の自由詩は、どれも平易な日常語で綴られ、誰にでも理解できるものです。無邪気な砂場のひとり遊び。ありふれた日常・見慣れた光景をスケッチしただけの数行は、大人だけでない子供にも十分に伝わります。まっすぐに読み手の心に届き、長く残ります。そしてそれは、時に見知らぬ遠いところまで私たちを連れだしいざなう力を秘めて、私たちの前に拡がっています。千鳥の詩は、ただただわかり易く幼いのではなく、ふとしたかげんに日常を横断し越境してしまう不穏をはらんだ文学のひとつです。言葉そのものが、読み手の心を掴み、沁みていく。言葉の純粋さだけが力となって、読み手を捉え離さず働きつづける。そんな文学の力を感じます。そんなとき、多くの文学者に並んで、千鳥を「横断の人」「越境の人」の一人だと呼んでみたくなるのです。