千鳥さんの過ごした時代から一世紀、まるで空想科学小説のような世界が実現しています。通信や物流の分野では少し前から「ラスト・ワン・マイル」という言葉が話題です。情報を家庭や企業などの利用者にどう届けるか、伝送路の最終工程を意味します。物流分野では、注文の商品をどう届けるか、最終区間を巡って色んな業者が鎬を削っています(無人配送ロボット、宅配ドロ―ン‥‥)。とどまるところを知らず進み続けてきた技術開発の結果、今の社会は、あらゆる分野で歴史の最終局面「ラスト・ワン・マイル」に入りつつあるようです。もっとも、それが進化なのか退化なのかは分かりません。人間は幸せになったのか不幸になったのかも判断がつきかねます。もしかしたら、袋小路のどんづまりなのかもしれません。豊かになって貧しくなった、そんな溜息も聞こえてきます。悲観的に過ぎるのかもしれませんが、幕引き直前の負け戦・消化試合、そんな感じでしょうか。
とりわけ、表現・文化の世界にそれを感じます。
先回、「読み手<書き手<打ち手」と書きました。世の中がどんどん簡単便利になって、読む力・書く力が衰えている、表現が浅く軽くなっていることに 皆 気づきながらも為すすべなく立ち往生、知らぬふりです。重いもの・深刻なものは敬遠されがちです。昭和から平成の世を生きた文筆家・橋本治さんはこう言っています。「人間、ある程度のとこまで、誰だって行くサ。‥‥(中略)‥‥ 問題はその先なんだよ。その先だって分ってるクセに、みんなテキトーなことを言って降りちゃうんだよ。その先をつめて考えるなんて、メンドクセェこと、しやしねェんだよ。 」確かに、文学は「ある程度」を超えた「その先」の一歩が勝負どころ、大変なのです。文学・詩の世界は、先へ先へと新しいもの・進んだものを求めたあげく、煮詰まって追い詰められて袋小路に入り込み酸欠状態に陥って途方に暮れもがいているように見えます。「ある程度」の「その先」にもがき苦しむのなら、いっそ回れ右して、過去・後ろを振り返ってみるのも悪くないと提案したくなります。原点に帰れ、始発に戻れ、と。知られざる過去・埋もれた文物を探ってみてはいかが、と。
そんな時、千鳥さんの詩が「沁みてきて」浮かび上がってきます。生きることの清廉に心が洗われるのです。きっといつか誰かが何処かで出会ってくれる、それまで表現・文化の地下水脈を涸らさずに流れ続けさせよう、そう信じて前を向いて今年も行きます。