千鳥さんの時代から一世紀が経ち、メディア(通信媒体)は広がり多様多彩に膨らみました。新聞雑誌ラジオテレビといったマスコミ・マスメディア(大量一斉情報伝達手段)が普及進化しただけでなく、コンピュータ(電子計算機)の普及によって登場した「インターネット(地球規模の情報通信網)」が世界を一変させました。これによって世界は一つにつながり、個人と個人、個人と組織、組織と組織が双方向に情報を発信・やり取りすることが可能になりました。(ちなみに中国語では、インターネット=国际互联网=国際互結網 と云うようです。)双方向のやりとりが可能になったことで、それまで一方的に受け取るだけだった情報の受け手が、自ら情報の発信者=送り手になることが出来るようになりました。大きな資本・組織を持たなくても、様々な個人が比較的簡便容易に(自在勝手に)情報発信する時代の到来です。言ったもん勝ち、送り手優位時代の始まりです。
最近、詩を書く友人はこう嘆いています。「いまや、現代詩の世界では、読者より詩人の方が多くなってしまった。書く人は増えて、読む人は減った。これは由々しき問題だ。表現の世界が拡がり自由度を増して豊かになるのなら大歓迎だが、事態は正反対。仲間内だけのムラ社会に自足満足し、閉ざされた狭い世界の中で窒息閉塞疲弊している。袋小路に入って先細り・窮屈鬱屈、貧血酸欠、痩せてみみっちくせせこましくなるばかり」彼の言い分、分からぬでもありません。それは、詩の世界だけでなく、あらゆる表現の世界で進んでいます。
表現者の裾野が広がって、山の頂が高くなるのなら良いのですが、玉石混交を通り越して液状化が進んでいる面 無きにしも非ず です。情報化時代の進展によって世の中が簡単便利になったお陰で、読む力を十分磨く前に、書き始めることが増えました。今 書き始める と書きましたが、「インターネット(電子情報通信網)」の世界では、文字は書くのではなく、キイボード(文字打刻鍵盤)を打つのが普通です。だから正しくは〈書き始める〉ではなく〈打ち始める〉とするべきなのです。事前に大量出来合いのテンプレ(Template ひな形・お手本)が用意され、コピペ(Copy and Paste 複写・転写)も自由自在です。頭で考えたり、手を使って文字を書く必要はありません。ただ、選べばよいのです。結果、やってきたのは、膨大な情報の垂れ流しと定型・紋切り型・月並み・凡庸な表現の大洪水でした。
読まなくてもいい、書かなくてもいい、一億総表現者時代はどこかおかしな時代です。書き手の横行で読み手が不在になったあげく、表現が力を失っていくのを見るのは情けない限りです。読む力があってこそ、書く力が育つことはいつに時代になっても変わらない。そう思いませんか?
豊かになって貧しくなった、届きやすくなって届きにくくなったとしたら、それはそれは、とても哀しいことですよね、千鳥さん。