明治から大正にかけては、映画の人気が沸騰し全国に広がっていく時期でした。もっとも当時は「映画」ではなく「活動寫眞」と呼ばれていたのですが。1921(大正10)年、文部省普通学務局が調査した「全国二於ケル活動寫眞館の分布」の記録が残されています。
東京には62館、大阪は34館、日本全国では472館の常設館が挙げられています。鳥取にも市区に3つ、郡部に1つの記録があります。さらに2021(令和3)年 鳥取大学の佐々木友輔さんらが行った調査によれば、鳥取初の活動寫眞常設館は1912(明治45)年開業の「電気館」(若桜橋)に遡ることも判明しています。その後「電気館」は休館し、千鳥が生きた1917(大正6)年から1924(大正13)年にかけては「世界館」(川端2丁目)「帝国座」(川端1丁目)「大国座」(今町)の3館が競っていたようです。『怪盗ジゴマ』『チャップリンらの短編喜劇映画ニコニコ大会』『目玉の松ちゃん 尾上松之助のチャンバラ映画』などの無声映画が人気を博していました。
残念ながら、千鳥が活動寫眞を見たかどうかは分かりません。ただ、ハイカラモダンであった母古代子や義父涌島義博らのことを想うと、新興文化としての映画に興味を惹かれたであろうことは容易に想像されます。さらに言えば、大衆人気の娯楽映画よりも、先進的だと当時評判だったドイツ表現主義サイレント映画『カリガリ博士』[1919年制作 1920(大正9)年日本公開]あたりを好んだのでは‥と妄想は広がります。千鳥母娘が『カリガリ博士』を見ていたのでは‥そう想うと、なんだか愉快になります。
今日は特別附録をサービス ⇒ チャップリン『犬の生活』さわり