おなじ大正時代、同じ山陰・同じ日本海に面した浜辺の育ち‥そんな類縁から田中千鳥を金子みすゞの「妹分」になぞらえる理解があります。分からぬでもありませんし、「みすゞの有名性を足掛かりに千鳥を全国区にしたい」という誘惑も正直あります。けれど、芯のところで「ちょっと違うよなぁ」という思いがぬぐえません。
金子みすゞには、文芸作家としての自覚はもちろん、自負も自信もあったに違いありません。もっといえば、野心も計算も。それはなんらいけないことではありません。むしろ必要なことです。ただ、田中千鳥は違います。七歳半 幼き少女に作家の自覚はありません。作家以前。千鳥の詩は、原石のままにゴロンとそこにあるだけです。剥き出し、手加減なし。だからこそ容赦なく厳しくゆるぎありません。偽りとも身構えとも無縁です。汚れがない 裏がない 罪がない? いやだからこそ始末に負えない、とも言えます。
大人は詩を書くことが“表現”であると同時に“商売”であり“生活・人生”である(ことを知っています)千鳥の詩は純粋な“表現”でしかありません。いやむしろ(より正確には)“表現以前”です。そこには、言葉を得た喜び、確かな“目”だけが生きています。千鳥には、みすゞの鬱屈・傷み・鋭い暗さはありません。もっと平明でおだやかです。作為・意図も意思も希薄だからです。その分やわらかく鋭く強い(毅い)、そう言うことができます。
千鳥の詩文からは、洗心 救済 希望 再生 浄化‥そんな言葉が浮かんできます。
みすゞ≒チドリを潔しとしない根っ子には、安易な発見や発掘にとどまらず読みの深化を求める気持ちがあるのです。難儀ですが致し方ありません。