『千鳥遺稿』の編纂後記に母・古代子はこう書いています。
「彼女の讀書力は最近いちじるしく進んでゐた。‥‥イソツプ物語もよく讀んだが、ある時「蟻ときりぎりす」を讀んでから、すつかりイソツプに興味を失つてゐた。何故と云ふに――冬になつて食物に餓えたきりぎりすが、お隣りの蟻の所に行つて、食物を少し恵んで下さいと云ふのに、蟻は、夏の中歌つたり踊つたりしてばかりゐたきりぎりすを嘲笑つて、我々蟻は 貸しもせぬ 我々蟻は 借りもせぬ と唄ひながら、せつせと働いてゐた――と云ふ物語を、彼女は大層不満がつた。「わたしは、讀みながら、蟻が親切にきりぎりすを助けてやるだらと思つてゐたのにこんなおもひやりのない話は大嫌いだ」と云つた。
映画『千鳥百年』でも採りあげましたが、人も世の中も「貸したり借りたり」しながら生きています。貸し借りナシの人生なんてありえません。チドリはきっとそのことを知っていたのでしょう。おもひやり。持ちつ持たれつ、助け合い、共生、相互扶助、‥‥。そういった言葉が幾つも浮かんできますが、それを徹底するのは思うほど簡単なことではありません。
十年以上前に或る映画のために「こたえは ひとつ / 排除しないこと / これが やさしくて‥ / 難しい」というキャッチコピーを書いたことがあります。チドリは幼かったがゆえに「排除」することを知らなかっただけなのかもしれません。けれど、「排除」を知ることが成長や世知だとするなら、それは悲しく情けないことです。そう思いませんか。