千鳥の詩を早熟の才と呼ぶのは間違っているように思うのです。確かに彼女は若く、若くして亡くなりました。ただ「早くに熟した」というより、「熟すことそのものと無縁に生きた」だけでした。その結果が幾つかの詩文として遺されたのでした。早熟とか夭逝というのは、後代の人の言葉です。天賦の才との評価も外からのものです。彼女自身は、普通の少女として生きたに違いありません。恐らく若いとか早いとかもっと長く生きたいとかの思いが芽生える以前に静かに姿を消しました。病弱の自覚はあったでしょうが、それを十全に受け止め受け入れ、自らの生を過不足なく全うしただけでした。その十全が、時代を超えて古びず、クッキリ読み手に響く強さの源になっている、そう思うのです。彼女の詩文に、はかなさ、かそけさと共に、揺るぎない張力を感じるのはそのためです。
上の画像は、江戸時代の禅僧・仙厓さんの『円相図』です。隣の文字は「これくふて、御茶まひれ」と読みます。「この饅頭食べて、お茶でもどうぞ」早熟や天才とレッテルを貼るより、遺されたことばをそっとそのまま味わうほうが、ずっとまろやかで豊か、そう思いませんか。