蕗谷虹児は、1920(大正9)年 22歳で竹久夢二に見いだされデビューした挿絵画家です。
今は竹久夢二ほどの知名度はありませんが、大正から昭和にかけて『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』など数々の雑誌の表紙や挿絵で幅広く人気を博しました。「抒情画」という言葉を考案したのも彼でした。画だけでなく童謡『花嫁人形』の作詞も手掛けました。「きんだんどんすのおびしめながら、はなよめごりょうはなぜなくのだろ。 ‥‥ 」という歌詞は、年配の方はメロディーと共に懐かしく憶えておられるのではないでしょうか。
戦後に入っても、小学館や講談社の絵本などで息長く、幅広く活動を続けました。中でも特筆しておきたいのは、1956(昭和31)年日本初の本格的アニメーションスタジオ「東映動画スタジオ」設立への参画です。1958(昭和33)年には『夢見童子』の原画・構成・演出を担当します。これは16分の短編ながら、初の国内向けカラーアニメーション映画です。
東映動画は、後に手塚治虫に影響を与え、若かりし頃の宮崎駿や高畑勲らから「蕗谷先生」と呼ばれ親しまれてきた、というエピソードが残っています。大正ロマンの画家蕗谷虹児と平成アニメの宮崎駿、その遥かな接点。思えば、宮崎アニメにも凛々しき少女たちが多く登場しています。歴史の脈絡、類縁の不思議。