チドリや母古代子が生きた大正という時代は、明治と昭和に挟まれた「小さな」時代です。偉大なる明治と激動の昭和の間にひっそりと佇む短い15年。徳富蘇峰は、明治の父に対して「若旦那」の時代と呼びました。『大帝没後』を書いた長山靖生は、「遺産相続人の時代。生産や闘争よりも、消費と教養の時代だった。」と述べています。三島由紀夫は小説『春の雪』に「清らかな偉大な英雄と神の時代」明治に対して、カフェや女性専用車が登場した女性重視の「軟弱な、情けない時代」と書きました。マッチョマッスル嗜癖に染まった三島らしい言葉です。
大正から昭和、平成を経て令和へと時代は移りましたが、今一度、忘れられ影薄き時代・大正期にスポットを当ててみようと思います。とはいえ、大所高所から俯瞰した大文字の歴史ではなく、地べたに立つ人の目の高さから見えてくる小文字の暮らしぶり点描です。
山陰線の開通に伴い、古代子の生家が運送業を営んでいたことは前にも書きました。この時代、鉄道はメディアでした。鉄路に乗って様々な物資や文化が地方に広がり行きわたりはじめます。大正時代キイワード その一は、マスメディアの発達です。
明治に生まれた新聞は大正時代になるとさらに広く普及しました。さらに文芸誌・総合誌など雑誌の発刊が相次ぎます。中央公論、文藝春秋、‥‥岩波書店、新潮社が創業し、政治雑誌や経済雑誌だけでなく、写真雑誌、宗教雑誌、医学雑誌、演芸雑誌、‥‥ありとあらゆるジャンルの雑誌が生まれました。女性向けには「婦人画報」や「主婦の友」が創刊されました。鈴木三重吉が童話と童謡の雑誌「赤い鳥」を始めたのもこの頃です。その後「コドモノクニ」も続きます。1923年(T12)9月関東大震災後には地方で同人誌のブームも起こりました。一方で、チャップリンやキートンらの活動写真(無声映画)が人気を博し、蓄音機・レコードが全国に普及していきました。今も続く映画雑誌『キネマ旬報』の発刊も1919年(T8)のことでした。
千鳥が亡くなった翌年には、日本初のラジオ放送が始まります。もちろんテレビもコンピュータも無い時代のことです。今となっては隔世の感、想像も出来ませんが、千鳥や古代子が生きた大正時代は、まぎれもなく今に至るメディアの黎明期でした。