「時代はくだって、数えきれぬほどの利便の増加を見たが、利便さゆえに人間が賢明になったという証拠はどこにも発見できない。」大正発 令和行シリーズの第三回、題材は「衣服」です。
千鳥の写真は『千鳥遺稿』冒頭に載る「面影」一枚しか残っていません。リボン姿の晴れ着写真です。
(実はもう一枚、地元の新聞記事に別の写真が載ったことがあるのですが、どうやらそれは千鳥ではなく母・古代子の写真の差し違いだったのではないかという説があり、真実は闇の中です。)
従って、幼少の千鳥が普段どんな衣服を着て暮らしていたのかは定かではありません。尋常小学校にどんな格好で通っていたか、居間や寝間での服装はどうだったのかは当時の資料を参考に類推するしかありません。
着物に白いエプロン姿が目立ちます。明治から大正、昭和初期にかけて、子供たちが衣服を汚さないための実用とオシャレを兼ねた「西洋前掛け=ピナフォア:pinafore」が大流行したようです。これは今も幼稚園児に見られる「スモック」の原型のようなものでしょう。履物は草履や下駄、運動靴は見あたりません。ただ、ラケットを持つ少年の姿からは当時すでにテニスが普及していたことが分かります。
さて、千鳥の義父 涌島義博が書いた「ばら色のリボン 亡き兒の霊に」にはこんな一節があります。
「来る日も来る日も淋しうて かあちゃんはチドリの臭いをかぎながら 毎日着て遊んだガルバルヂィを押し抱いて 来る日も来る日も泣き暮らしてゐるよ。」
この「ガルバルヂィ」がよく分かりませんでした。アレコレ当たってみたところ、やっとこんな記述を見つけました。
ジュゼッペ・ガリバルディ:Giuseppe Garibaldi[1807~1882]イタリア統一運動の指導者。 青年イタリア党に入り、 1860年、千人の義勇兵「赤シャツ隊」を率いて、全シチリアを解放した。
Garibaldiが「ガルバルヂィ」と表記され、配下の義勇兵たちとお揃いで身に着けた「赤シャツ」が日本では「ガルバルヂィ」と呼ばれたのではなかろうか―これが管理人の勝手な推察です。もとはウールの長上着だったものが、後に、子供や女性用の赤いゆったりした長袖胴衣「ガリバルディブラウス」として普及し、それをハイカラ志向のあった母 田中古代子と養父 涌島義博が愛娘に着せたのではなかろうろうか、と妄想します。
母 古代子の「編纂後記」にもこんな箇所があります。
「「學校の唱歌は、まつ四角な感じがして厭だ。」と云つて、私達の唄う歌は、何でも一所によく唄つた。ゴルキーの「どん底」の歌。 夜でも晝でも 牢屋はくらい いつでも鬼奴が 窓からのぞく 殊にこの歌などは氣に入つて、夜でも晝でも情緒をこめてよく歌つた。インターナショナルの歌も大分うたへ出してゐた。そして歌の意味を何處までも追究するので、説明に弱らされたものだつたが、私達の思想を或る程度まで理解してゐた。たのしかつた!」
天稟 健やかで伸びやかな 千鳥の感(受)性を感じます。