何時の頃からでしょうか、ステージに立って声を出して詩を読むライブ・イベントが盛んになりました。ポエトリーリーディング、詩の朗読会、音読の集い、リングに見立て、自作の詩の朗読を競い合う「詩のボクシング」も定着しました。音楽の世界では、ヒップホップの歌唱法ラップも市民権を得て大人気です。韻、リズム、コールアンドレスポンス、‥‥。
外野からとやかく言うのは気が引けますが、この種の催しはちょっと苦手でした。とりわけ、自作詩の朗読にはどこかで自己顕示、自己広報、自己陶酔が滲むようで敬遠してきました。しかし、千鳥と出会い、千鳥布教をはじめてから、考えが変わりました。地元鳥取の各地で、京阪神や東京で、女性たちや子供たちが千鳥の詩を朗読する催しが行われるようになり、接する中で朗読も悪くないな、と思うようになりました。単独読み、群読、輪読、これまで何度も心動かされる朗読に出会ってきました。根っこには千鳥の詩がそもそも持つ「音楽性」があることに気づきました。
自作ではない詩をよむ 声に出してよむことで、世界の広さを感じます。書き手と読み手はそれぞれを抜け出て、一つに融けあって時空を共有していきます。
そんなことを思っていたら、数日前に読んだ荒川洋治さんの本にこんな箇所を見つけました。
荒川洋治「声」【初出:1998年6月 雑誌「すばる」】「すぐれた詩には、その文字のなかにゆたかな音楽が、音楽性がある。それで十分。わざわざ他の力を借りることはない。」「文字として読んで素晴らしい詩は音読にも堪える。いいものは朗読しても、いい。朗読どころか、「黙っていても」その詩はいい。輝く。どんなに朗読がうまくても、だめな詩はだめ。別のものに化けることは絶対ありえない。」 同意。