目の前の自然や生物を描写しながらチドリの心象は明るくも暗くもありません。感傷は一切ありません。乾いているわけでも湿っているわけでもありません。敢えて重ねて言うなら、言葉を信じているわけでもない気がしてきます。もとより、言葉を書いているのですから、言葉を信じていない筈はないのですが、さらに言葉を発する初発・始原の喜び、初々しさは十分に香ってくるのですが‥‥。チドリは、言葉を離れて遠くを、自在に見ているように思えてなりません。あらぬ彼方を見ている気がするのです。不思議です。
チドリは、「私」や「自分」に向かうより、相手(対象)に寄り添う気持ちの方がはるかに大きく深かったのだと思います。私や自分ではなく、家族とか身内とかでもなく、近しいもの・小さきものに注ぐまなざし・寄せる思いを強く感じます。それは無私?無欲? 無私の思いやりなのでしょうか。いやいや、そうではなさそうです。思いやり(という一種の思い上がり)とは無縁です。むしろ、思いやりとは真逆に、丸ごと100%が私心から生まれたのかもしれません。ただ、早い時期にどこかで、自分に出来ることと出来ないことがはっきり見えてきた・しっかり分かってきたのだと思うのです。その時から、チドリは無意識に私心を消し始めたのではないでしょうか。
私心消去。チドリの詩が、どこかいつも「はかなげ」なのはそのためです。そこには根源的な寂しさが漂って離れません。
無欲の勝利とも違います。チドリには勝利も敗北もありません。あるのは深い諦観と慰安‥それだけでしょう。
幼女の千鳥にあった覚悟。覚悟とはいえなくとも諦観に近い何か、が確かにあったのでしょう。読み手はその深さ奥行に打たれるのかもしれません。
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「私の私小説とは私に即して私を抜け出す」ことと書いた私小説作家・川崎長太郎を評して、詩人・平出隆はこう書いています。「私は身のまわりで小宇宙へと溶け出すそして「私」は広大な宇宙の中、極小の光となって明滅していく」【『わたしのティーアガルデン』から引用】
文筆家・草森紳一のことば:「我を溶かし、溶かされたその中でかろうじて目を開くことにある。遠い感覚が残るのはそのためであり、日常の瑣事や風景を詩化しながら幻想的なもの、そのまっただ中で同時に、遠い目を据えているためである」【『植田正治の世界』から引用】
詩人・尾形亀之助『障子のある家』の自序(部分):「 何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は / 第一に全くの住所不定へ。それから/ その次へ。 」
韓国の詩人リュ・シファのことば:「この世で生きるべし。/ だがこの世に属してはならない」【 インド放浪記『地球星の旅人』から引用】
俳人・住宅顕信についての小説家・長嶋有の評論:「自分の肉体を静物としてとらえることにより、世界の「せまってくる」感じと「遠ざかる」感じがより強まる」【『住宅顕信読本』から引用】