萩原朔太郎や中原中也は国語の教科書に必ず登場するビッグネームですが、尾形亀之助はそうではありません。では、全くの無名詩人かと言えばそうでもありません。知る人ぞ知る「全国区」近代詩人のひとりです。1900年(M33)生まれですから、朔太郎(1886年 生)と中也(1907年 生)間の世代です。大正から昭和の初めに活動し、1942年持病の喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱で亡くなりました。享年43。直接の死因はわかっていませんが、「餓死自殺」だったという説も残っています。宮城県の裕福な実家から画家を目指して上京、モダニズム絵画「化粧」を発表、大正期の新興美術運動「MAVO:マヴォ」の初期メンバーとして注目を浴びました。
しかし、2年あまりで美術界を去り、詩作に専念、詩人に転身します。1925年(T14 26歳)には第一詩集『色ガラスの街』を刊行。この頃 草野心平や高村光太郎らと出会います。翌1926年(T15 27歳)第二詩集『雨になる朝』を、1930年(S5 31歳)には第三詩集『障子のある家』を出版します。生涯に刊行した詩集は三冊です。その全編と未刊詩篇は、今 現代詩文庫第2期1005『尾形亀之助詩集』【思潮社】で読むことができます。
インターネットの「青空文庫」 青空文庫 尾形亀之助 や電子書籍リーダー Kindle 尾形亀之助 作品全集 でも読めます。時間のある時にでも、是非一度ご覧ください。もとより、評価は人それぞれです。どう読むかは自由です。従ってここでは触れません。ただ、一つだけ、高村光太郎が1948年(S23)12月5日 「河北新報」に寄せた一文の冒頭を紹介します。
「尾形亀之助の詩ほど、名状し難く、捕捉し難い魅力を持っている詩は少い。彼は落ちついた言葉で、ただごとのやうな詩を書くと、読む者の心は異常な衝撃をうけて時として不思議な胸騒ぎさへおこる。どこにそんな刺激があるのか、読み返してみても分からない。‥‥」【1970年発行 草野心平 秋元潔 編纂『尾形亀之助全集』思潮社 別冊資料集より孫引き・転載】
そう、亀之助の詩は”ただごと“の詩なのです。そこにはむずかしい言葉も抽象語も登場しません。目の前か頭の中に浮かぶものをそのまま写生したような平穏平易な言葉が並びます。ただ、ピント(焦点)は目の前ではなくずっと先に合わされているような、ぼんやりともう少し遠くを見ているようなところがあります。“ただごと”なのに”ただごとじゃない” 不安・不覚・浮遊・・・が漂います。それが時代なのか、社会なのか、出自なのか、病苦なのか、理由は分かりませんが、田中千鳥の詩の世界との同質・類縁を強く感じて惹かれます。(文学の世界では”ただごと”俳句は貶められ、”ただごと”短歌:奥村晃作ら は評価されるという傾向があるようですが、ここではこれ以上は触れません。)
もう一つ、これもいまでは忘れられて流行りませんが、1960年代日本では、フランス由来の”実存主義”が人気を博しました。キイワードは「存在の不安」でした。思えば、近代のはじまりに生きた田中千鳥や尾形亀之助の詩は、この「実存主義の先駆け」だったようにもみえてきます。
二人の違いはただ一つ、亀之助は”眼の男“で、千鳥は”耳の少女“だったというところでしょうか。亀之助からは情景が浮かび、千鳥からはそこにさらに音まで響いてくるようです。