作文に続いて夏休みに書いた日記が二つ載っています。大正十二年八月 (数え年七歳 満六歳)の「ナツヤスミ ニツキ」と大正十三年(数え年八歳 満七歳)「なつやすみ日記」。
当時 尋常小学校に入学して最初に習うのは、カタカナでした。(小学一年生の国語教科書の最初が「ひらがな」になったのは昭和23年以降のことです)戦前までの公文書は漢字カタカナ混じりの読み下しが基本であり、ひらがなは女性が使う通俗なものであったためとか、筆を使って書くことが当たり前だった時代には、曲線の多いひらがなは難しく、直線の多いカタカナや簡単な漢字「山」「川」から習い始める方が易しいから、といった幾つかの理由があったようです。仔細に分け入れば、いろんなものが見えてきます。
ニツキには、バンカタ(夕方?)オユニイク様子やマツチデクモヲヤクムラノコドモタチ、ヤイト(お灸)ノゴホービ二ムギワラバコヲカツテモラッタこと、サンジツ、トンボ、スダレ、ジドウシャ、小ドジウや小ガニトリ、タナバタ、オボンサウジ、タタミホシ、アンゼンピン、カミナリ、オハカマイリ、アマガヘル、カラカサやマツのモヨウの小ブトンなどが登場します。
病弱な母チヤンのイシャガヨイ、六月に死んだニイチャン(本当は 古代子の弟 卓 享年14 歳若いので千鳥はニイチャンと慕っていた)の初盆行事、などの日々が綴られています。そして、八月三十一日の夜
ヨル という自由詩を書きます。
ヒサシブリニ アメガフリ / スズシイスズシイ アキカゼガ / ミナミトキタカラ フイテクル / スズシイスズシイ アキカゼガ / カヤ(蚊帳)ヲウゴカス / ヨイキモチ ( / は 改行 )
母古代子は『千鳥遺稿』に「この詩を夜おそく、夏休日記の終わりに書いて明日は學校に行くと樂しんで寝たまゝ六十余日肺炎を病んだ。」と註記しています。(十四頁)
ニツキからは、薄く、淡く、はかなく(儚く)、かそけし(幽し)‥‥勾玉同士が触れ合って立てる微かな音をあらわす古語「たまゆら(玉響)」といったことばが浮かんできます。