spontaneity という言葉があります。日本語には訳しにくい語ですが、英和辞書を引くと、
[名詞] (pl. -ties) 1 自然発露的なこと,自然さ,のびのびしたところ;自発性;自然発生. 2 自然発生的な行為[動作],自発的行為[動作].3 外力によらない[自動性の]衝撃[運動,自然現象] 4. 植物が自生すること, などと出てきます。
「意図したものを超えた発露」というか、「(目的意識性をはみ出した)自然発生性」といった意味でしょうか。
上に挙げた画像は、映画の父といわれる仏リミュエール兄弟の1895年の映画『Le repas de bébé,(Baby’s lunch)』(赤ちゃんの食事)の一コマです。僅か1分足らずの映画ですが、食事風景の背後には、たえず風に揺れる木の葉の様子が映っています。(YouTubeをどうぞ https://www.youtube.com/watch?time_continue=9&v=Wqy-EU2D8M0&feature=emb_logo)映像文化論が専門の社会学者 長谷正人さんや英の映画編集者 ダイ・ヴォーン(Dai Vaughan)さんは、この木の葉の揺らぎに注目し、spontaneity についてこう書きました。(長谷さんは「自生性」という訳語を当てています。)「当時の人々が驚いたのは、‥‥動く写真という現象にではなく、映画が劇場では不可能な(従来の絵画や芝居では絶対出来ない)自生性(spontaneity )を描く能力を持っていたことなのだ。‥‥観客たちが驚いたのは、生命を持たないものまでが自己表現に参加していることだった。」(一部改変)
前景の「食事風景」もさりながら、注目すべきは、「自ずと映り込んでしまう庭木の葉の揺らぎなのだ」というわけです。映像の原初の力は「人間の意図的なコントロールなど越えて、自然に画面に湧き出てしまうこの spontaneity にある」と主張します。ダイ・ヴォーンさんは、それを「自生性の捕獲」という言葉で語りました。
「「自生性」は映画製作者には予想できなかったもの、そしてコントロールできなかったものとして到来するのだ。」
作意や計算を超えて、意図せざるものまで写し込んでしまう力能。「意味に還元しきれない 過剰な何か」が映り込んでしまうこと。
千鳥の詩を読むといつも、この spontaneity が浮かんできます。千鳥が書き残した言葉の背後や周辺に偶然映り込んでしまったものの気配、孕む空気、温度湿度、重力、匂い・音‥‥表現の奥行き・拡がり‥‥もとより千鳥には与り知らぬことでしょう。彼女はただ目にした光景、心惹かれる風景を素直に平易な言葉に綴り写生しただけでした。
詩人谷川俊太郎はこう言っています。「詩は自己表現ではない。自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを記述するものだ」
自己表現を超えた千鳥の詩の豊かさ・ふくよかさは、思わず知らず生まれてくるこの spontaneity に由来する、そう思えるのです。これは誰にでも出来そうで、誰にでもは出来そうにない技芸です。