1898年(明治31年)に生まれた吉田璋也は、鳥取に生きた民藝運動の活動家です。若くして「白樺派」に出会い、生活に根ざした柳宗悦らの「民藝」運動に共鳴、以来「民藝のプロデューサー」を自認、生涯を通じて民藝の普及に取り組みました。1931年鳥取市に耳鼻咽喉科の医院を開くかたわら、 衣食住にわたるデザイナーとして自らも多くのデザインを残しました。

牛ノ戸焼(吉田璋也デザイン)
1897年(明治30年)生まれの川上貞夫もまた鳥取の民藝運動をささえた一人でした。吉田璋也の右腕として、美術・建築・考古などの分野で活動しました。鳥取に迎えたバーナード・リーチと陶芸家濱田庄司と共に撮った写真が残っています。

手前リーチ,その奥濱田,右端吉田、隣川上
千鳥の母親・田中古代子や再婚相手涌島義博は、鳥取の文芸仲間として親しく交流していたようです。千鳥より少し遅く1926年(大正15年)に生まれた貞夫の長女川上純子は、幼い頃父の友人たちが自宅に集まってゴーリキの戯曲『どん底』の歌を皆で歌っていたことをよく憶えていたと語っています。『千鳥遺稿』に母古代子が寄せた「編纂後記」にはこんな一節があります。
「私達の唄ふ歌は、何でも一所によく唄つた。ゴルキーの「どん底」の歌 夜でも晝でも 牢屋は暗い / いつでも鬼奴が 窓からのぞく 殊にこの歌などは氣に入つて、夜でも晝でも情緒をこめてよく歌つた。インタナショナルの歌も大分うたへ出してゐた。そして歌の意味を何處までも追究するので、説明に弱らされたものだつたが、私達の思想を或る程度まで理解していた。楽しかつた!」
千鳥が、並外れて早熟で官(感)のすぐれた少女だったことをうかがわる記述です。
吉田璋也や川上貞夫らの思いは受け継がれ、ゆかりの地には、「鳥取民藝美術館」や鳥取たくみ工芸店、ギャラリーたくみなどが並びます。
その隣には「童子地蔵堂」も出来ました。ここには子供の墓として作られながら無縁仏となった154体のお地蔵さまが安置されています。