出版事情も大きく異なる今から一世紀も昔、『千鳥遺稿』を出版した背景には、古代子二度目の結婚相手となる文学者・涌島義博の力添えがあったと推察されます。明治31年(1898)鳥取市に生まれた涌島義博は、古代子より一つ年下で、雑誌「白樺」に寄稿したり、自ら南宋書院を経営し後に林芙美子の詩集「蒼馬を見たり」を出版するジャーナリストでした。出版事情にも通じており、農民運動や解放運動にも参加した人物だったようです。(参考:日外アソシエイツ「20世紀日本人名事典」2004年刊)
涌島は、『千鳥遺稿』に「ばら色のリボン」と題した一文を寄せています。冒頭「亡き兒の霊に」とあり、義父 巍白 と表記の後、チドリに宛てた手紙形式で綴られます。関西に居て母古代子から受け取った「大變鹽梅が悪い」という電報に、いつもは欠かさないお土産を選ぶ氣になれなかった〈不吉〉、贖った「薔薇色のリボン」が舎利壺を飾る結果になった〈無念〉が語られています。
「來る日も來る日も淋しうて / かあちやんはチドリの臭ひをかぎながら / 毎日着て遊んだガリバルヂィを押抱いて / 來る日も來る日も泣き暮らしてゐるよ 」( 本文は四行にわたる / で改行)
「ガルバルヂイ」というものがどんな衣服なのかはよく分かりませんが、多分、当時はやり出した少女らしい洋装の一つだったのでしょう。千鳥が亡くなったのは1924年の夏八月です。その前年九月に起きた関東大震災のあと、全国で急速に洋装が普及したようです。千鳥の写真は和服の晴れ着姿しか残っていません。ハイカラモダンな母と義父の暮らしぶりを考えると、可愛い娘のためにいち早く愛らしい洋服を用意する微笑ましい姿が浮かんできます。
もうひとつ、この母も義父も、チドリを子供扱いせず、一個の人格として接していたことがうかがわれます。
「さうだ、この世の光はお前の繊細な神經に強すぎたよ / 月夜の海の波から生まれて / 星の國へ還ると空想したお前には / この光は無慈悲だった。」
「お前が行きたがつた印度の森の聖者のやうに押黙ってゐたが」
遠く遥かなものを共有する家族だったことが偲ばれます。