「見えないものが見えて、見えるものが見えなくなる」演劇家平田オリザの言葉です。【1994年初演『東京ノート』ハヤカワ演劇文庫8 所収】
「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの」社会学者岸政彦の言葉です。【2015年『断片的なものの社会学』朝日出版社 刊】
田中千鳥の詩を読むといつもこのふたつが浮かんできます。任意の自由詩一遍を採り上げてみましょう。
「しぜんのおんがく」
風のつよい夕方に / 母ちやんと山へ / お花とりにいった / 山のおんがくは / おそろしかった 八歳 五月
評論集『千鳥 月光に顕(た)つ少女』を上梓した上村武男は、そこに千鳥の「余韻の深さ」「余白の広さ」を指摘しています。その通りでしょう。しかし、こうも読めそうです。千鳥は、目に見えない遠くの残響(余韻・余白)を意図して書いたというより、目の前にリアルに現前するものすべてを余すことなく正確に言葉にしただけなのではなかろうか、と。
同じような体験は、一か月後の作文にも綴られています。
風
母ちやんと私と、うらの畠へ、まめを、ちぎりに出ました。そのうちに、大きな風がふきはじめました。よしやぶ(葭薮)や、むかふの山が、おそろしい、おとを、たてるので私は、おそろしいのを、まぎらさうとおもつて、大きなこゑで、うたを」うたつてゐましが、どうしても、こゝろはまぎれずにゐました。(改行) とうとう、しんぼうが、できなくなつて、かけつてかへりました。 八歳 六月
美学者伊藤亜紗は、大学で現代アートを教えています。彼女の本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』【2015年4月 光文社新書】にこんな記述があります。少し長いですが、引用します。
「鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります。多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。もちろん、好き勝手に解釈していいというものではないですが、だからといって自分なりの見方で見てはいけないと構えてしまっては意味がありません。
大学で現代アートを教えるにも、まずは学生に「武装解除」させることが必要です。‥(中略)‥ 受験勉強の延長で「この作品の正解は‥‥」と構えてしまう学生の肩の力を抜いてあげる必要があります。
それではどうするか。まずは何の説明もなしにバーンと作品を見せます。たとえば、赤い地の上に滲んだ四角が三つ並んでいる絵。そしてそのままこちらはだまっている。アクティブラーニングという名の放置プレイなのですが、そうでもしないと学生たちは自分の言葉でしゃべりだしません。」
「しばらくすると、学生が手をあげ始めます。「海苔の上に焼き鮭がのっているお弁当を上からみたところ」。なるほどね、と言いながらさらに別の学生の意見を待っていると、「布団を敷いてある」さらには「ポストの中に隠れて外を見ている」‥(中略)‥
要するに、自分が感じたその絵の意味を言葉にしてもらうのですが、物理的には同じ絵でありながら、人によって全く違ったふうに見ていることに、学生たちにまず驚いてもらうわけです。これが、「鑑賞とは自分で作品を作り直すことである」ということの意味です。」
伊藤先生はさらに続けます。
「ただし重要なのは、ひとつの作品からさまざまな解釈が生まれる、というその多様性を確認することではありません。そうではなくて、他の人の言葉を聞いたうえで絵を見ると、本当にそのように見えてくるのです。‥(中略)‥ 言葉を介して、他人の見方を自分のものにすることができる。「ああ、わかった」と納得できた瞬間、その人の見方で作品を見ることができたわけです。まさに「他人の目で物を見る」経験です。‥(中略)‥ それはまるで魔法のような変化です。鮭弁でもあり、敷布団でもあり、ポストの中でもありうるもの。芸術作品とは本質的に、無限の顔を持った可能性の塊です。」(太字強調 引用者)
情報ではなく、意味を探り合う
知識ではなく、解釈を拡げる
事実ではなく、経験を共有する
千鳥の詩を読む 読み方がもっともっと広がることを期待します。‥なぜなら、良く出来た詩文は「本質的に、無限の顔を持った可能性の塊」なのですから。
〔余白ならぬ蛇足ですが、引用の絵画は、マーク・ロスコの “Bluck in deep red”1957 〕