背反有理シリーズ 最初は、〈小さすぎて 入らない〉です。
こう書くと「なんだ 何の不思議もない、器が小さすぎて中身が収まらないのは当たり前じゃないか」そう思いますよね。けど、そうではなく、〈器は大きいのに、中身が小さすぎて入らない〉とするなら???が幾つも浮かんできます。「不合理ゆえに 吾 信ず」キリスト教神学の世界には、ラテン語で”Credo quia absurdum”(クレド・クィア・アブスルドゥム)という言葉があります。日本の文学者埴谷雄高は太平洋戦争突入の前夜1939年「不合理ゆえに 吾 信ず」と題したアフォリズム集を発表しました。
「不合理ゆえに 吾 信ず」「背反有理」は、「ものの見方を発見する営み」です。言い換えるなら、表現物や文学は「こたえはひとつじゃない、無数にある」ことの豊かさ、ふくよかさだに気づくことです。
田中千鳥が詩を書いたのは、満5歳から7歳半までのわずかな時間でした。年端もいかぬ小さな少女の手すさび・筆すさび。数も多くはありません。けれど、それが一世紀以上の時間を超えて我々に伝わり、心に沁み何がしかの感興をそそられる不思議。それは不思議でもあり、不思議ではありません。例えば、代表作の一つ
「朝の月」
まだよのあけぬ / 白月よ / お星のおともを一人つれ / お月様はどこにゆく 朝日をおがんでかへりがけ / ちらりと空を見上げたら / お月様は しらぬまに / お星と いっしょにき江てゐた / 月のゆくへは わからない
情景には少しの不思議もありません。誰しもが目に浮かべることが出来そうな朝の浜辺の散歩シーンです。大きな空に小さな月と星、ちっぽけではかなげな薄明の光景、空気・湿度・匂いまでが伝わります。そして最終行。そこに残る余韻・残された余白の大きさ・深さ。読み手は確実に受け取りながら、その先は自由です。わからぬ月のゆくえを探ろうと、我が身に振り返り寂しさを想おうと、いまここにあることの有り難さを慈しもうと自由です。
小さくて大きなことばの作用、ゆるぎなく遊びを持った構造、そんな千鳥のことばの力を信じます。持って生まれた天分・素質・資質、天賦の天凜、そう言ってしまえばそれまでですが、もう少し探求探索を重ねます。
背反有理シリーズ、かなり舌足らずで小難しいスタートになった感もありますが、懲りずに暫らく続けます。先の見えない沖合に向かって漕ぎ出してみるつもりです。