大正時代の”新しい女” 田中古代子は、鳥取県初の女性新聞記者として、文学者として、それなりに知られた存在でした。千鳥二歳 大正8年(1919年)の12月には、小説「実らぬ畑」が大阪朝日新聞社創立四十年記念懸賞小説選外佳作に選ばれ、大正10年(1921)には「諦観」が大阪朝日新聞懸賞小説二位に入選、選者の有島武郎に激賞されるなど、新進女流作家として盛んな執筆活動の中にありました。
百年後の今も、地元鳥取には彼女に注目する文学研究者があります。没後未発表原稿を編集・発行した中山昇治さん(編集工房 炬火舎 発行 1992.1.1『田中古代子詩集 暗流』)のような方もおられます。古代子が残した作品のすべてに当たったわけではありませんが、『千鳥遺稿』に載せられた「編纂後記」は、彼女の表現物の中で最良・上質なベストワンだと思います。
母として娘・千鳥に注ぐ眼差しは、優しく温かく柔らかです。綴られた文章は、記者らしい細やかな観察で千鳥の根っこを描写し、浮き彫りにして伝えます。親としての欲目を離れ、一人の編集者・エディターとして、或いは、プロデューサーとして、千鳥の才能(筆の力)に着目した〈第一発見者〉でした。
「五官を超えた第六官」、「唱歌、ゴルキーの「どん底」の歌、インターナショナルの歌」「題を決められる學校の「綴り方」ぎらい」「読書力:イソップ物語「蟻ときりぎりす」を讀んで チドリは「わたしは、讀みながら、蟻が親切にきりぎりすを助けてやるだらと思つてゐたのにこんなおもひやりのない話は大嫌ひだ」と云つた。」‥‥
幾つものエピソードを重ねた末尾に、古代子は記します。「取り殘された私達、チドリよ!私達こそ可哀さうではないか!明日をも知らず煩惱に煩惱を量ねて生き殘るのだ。」
さらに踏み込んで妄想を逞しくするなら、同じ表現者同士として、母・古代子は、娘・千鳥の力量を見抜き、高く評価し、自らの「負け」を認めていたのではないか、そう思うのです。だからこそ、亡くなってすぐに、遺稿集の発行を決意し、のちのちの世に残そうとしたのではないだろうか、そんな思いにも駆られます。