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千鳥の世界

河本緑石のこと

河本緑石は、自由律俳句の俳人です。季語や定型に囚われない自由律俳句については、種田山頭火や尾崎放哉が有名ですが、そもそもは明治時代 河東碧梧桐に始まり萩原井泉水を経て広まりました。山頭火も放哉も井泉水の門下生でした。そして緑石もまたそうでした。

河本緑石は、本名 河本義行 1897年明治30年、鳥取県倉吉市の生まれです。1914年大正3年頃から荻原井泉水に師事して自由律俳句を学び始め、初めて投句した俳句が『層雲』誌上に掲載されました。東北の盛岡高等農林学校で学び、卒業後は故郷へ帰り、県立倉吉農学校などで教員として働きながら、俳句、絵画、作曲活動などを続けました。1933年昭和8年に尾崎放哉の伝記『大空放哉傳』を執筆脱稿しますが。7月農学校の八橋海水浴場における水泳訓練中に、溺れた同僚を救助した後に事故死しました。享年36。『大空放哉傳』は死後2年を経て1935年昭和10年4月 東京神田の香風閣から刊行されました。(「大空」は尾崎放哉の戒名です)『大空放哉傳』の序文に師 萩原井泉水はこう記しています。「俳句は境地の文學であるとか、俳句には作者の生活が出てをらねばならぬとかいふ理論はこではいふまい。理論は皆後からつけたものなので、始めにあるものは作品である。いや、最も始めにあるものはその「人」なのである。」論より作,作より人、という井泉水の考えが沁みます。

一體、人は遠いものを美しと見、近いものを醜しと見る心理がある。これを「遠美近醜」といふ。近いものを醜しとまで見ずとも、近いものには一向無心であつて、遠いものをしきりに研究しようとする心理がある。」物や風景をよく観察し、そのありさまをみたまま作者の言葉で自由に表現する手法を、昭和の俳人後藤比奈夫は、その著書『今日の俳句入門』で「心で作って心を消すこと」と語っています。作意が透けて見えてはいけない、自然のありままをもっとも適した言葉で表現するのが良い、そのために作意の痕跡を消せ、ということでしょうか。

河本緑石は、山頭火や放哉ほどには知られていません。そのわけについて、郷土史研究家の押本昌幸さんは「河本緑石は(山頭火や放哉のような)流浪の人ではなく、市井の人なのでした。」と書いています。たしかに山頭火や放哉がまとう「漂白・流浪」に比べ、緑石の「市井の人」というフレーズは地味です。「無頼・破天荒」に比べ、「実直・素朴」はありきたりで目立ちません。なにものにも縛られず囚われない自由律俳句も、生活や日常に根ざして生まれます。その意味で、河本緑石の句作と田中千鳥の短詩文は連なっているように思うのです。( 緑石の代表句の幾つかは、ウイキで読めます。⇒ 河本緑石 ) 中からひとつだけ。

海ははるかなり砂丘のふらここ

ふらここはブランコのことです。漢字では鞦韆と書きます。千鳥同様、緑石も海を愛したようです。地元にある「河本緑石研究会」に拠れば、この砂丘は北条砂丘(鳥取県東伯郡北栄町松神)とのことです。

千鳥の生きた「浜村」に連なる山陰の海です。前述のように、緑石は、さらに西の「八橋」海水浴場で水泳訓練中の溺れた同僚を救けた後 亡くなります。人となりが偲ばれるエピソードです。

宮澤賢治は東北の盛岡高等農林学校の同窓生であり、ともに同人文芸誌『アザリア』を発行した仲間でした。賢治が緑石に送った葉書が遺っています。

賢治の「銀河鉄道の夜」の主人公・カムパネルラは、川に落ちた子供を助けた後溺れて行方不明になりますが、これは、河本緑石をモデルにしたという説もあります。

緑石にしろ、千鳥にしろ「市井に逸材あり」と 今更に思います。

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