大正期、千鳥が書き綴った詩文を、母古代子が『千鳥遺稿』として編纂・出版したと同じように、江戸時代、鳥取支藩の文人大名・池田冠山は愛娘露姫の遺筆を木版刷り(模刻)にして全国の文人仲間に送ります。これには大きな反響があったようです。ときの老中・松平定信やのちの水野忠邦など大名や文人曲亭馬琴、画家谷文晁など1500を超える人々から和歌や詩文の追悼文が寄せられました。父冠山は、これを『玉露童女追悼集』(全三十巻)にまとめ浅草寺に奉納しました。(上段アイキャッチ画像は浅草寺に今も残る「露姫の木彫像」です。)同時に家臣服部脩蔵に命じて伝記『玉露童女行状』を編纂しました。玉露童女は、露姫の法名:浄観院玉露如泡童女にちなむものでしょう。
(これらの記述には、江戸時代の旗本御家人宮崎成身(栗軒)『視聴草(みききぐさ)』国立公文書館蔵などを参照しました。)
二百年を経て今も伝わる「露姫」物語、千鳥の詩文も誰かの目に触れながら、末永く知られていくと有り難いのですが‥‥。